迷惑メールあれこれ

 迷惑メールが後を絶たない。迷惑メールと一口に言っても色々なパターンがある。◆一番頻繁に定期的にくるメールは何か上手いもうけ話みたいな内容が多い。勿論マユツバだ。この種のメールは商品PRが基本なので誰かがアルバイトを雇って毎日売っているみたいだ。また一時多かった口にするのも恥ずかしいえげつないメールは最近減った。その代わりに如何にも友人のような口調で語りかけるメールは困る。例えば「鈴木です、久しぶり。」なんて言うのはどうしても気になって開いてしまう。勿論大した内容ではないがつい開いてしまう。ただこうしたメールは基本的には迷惑メールに入ってくるので消去も簡単である。最近こうしたメールとは別に画面にデカく張り出してくるものが増えてきた。内容はIT系でデバイスがどうの、クリーニングがどうのと言った画面が大きく張り出してくる。いちいち消さねばならず迷惑も甚だしい。どうしてこうした広告が断りもなく他人のパソコンに入り込んで来るのか一度は言葉に沿ってクリックして行ったら途中からにっちもさっちもいかなくなって困ったこともあった。私の友人が頭に来て迷惑メールに対し、強く非難した返信を送ったらすごい数の迷惑メールがどっと送られて参ったそうである。迷惑メールには我々は無力なのだろうか?これらは全く無関係の人たちを巻き込む“インターネットの暴力”と言えるだろう。しかし無差別のハッキングよりはマシ・・・と諦めるしかないのだろうか。

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我が家の朝食

 私は昼食や夕食を抜くことがあっても朝食を抜くことはない。朝食が一番美味しいのは私だけだろうか? ◆毎日欠かさず取るのは野菜類と納豆である。野菜はキャベツやブロッコリ、トマト等だ。トマトは四季を通じて知り合いから新鮮な朝採りを入手できる。それに加えて海苔は野菜を巻くなどして必ず食べる。 その一方我が家の納豆はまずゴマ、オリーブオイル、からし、ネギ、それに醤油は少なめとして酢を入れる。これは高血圧を抑える目的もある。しかしこれだけでは物足りない。週に2,3度は卵かけご飯を食べる。私はこの卵かけご飯が大好きなのである。毎日でも食べたいのだがダイエットのため週2,3度に留めているのが実情だ。 池波正太郎は鬼平犯科帳でも藤枝梅安でも良く食事や酒のシーンが登場する。この時登場するおかや肴が実に美味しそうである。彼のエッセイの中にあるが大石内内蔵助は討ち入り前夜堀部家に集合しそこに友人が届けてくれた生卵を割り、準備カモ肉を入れたつゆに混ぜて炊き立てのご飯にかけて食べたそうである。この表現が実に上手そうで昼間でも食べたくなってきてしまう。 そして飲み物は塩分抑制のため味噌汁ではなく、通常は緑茶だけである。まあしかし朝飯が旨いうちがハナである、いわば美味しい朝飯は健康のバロメーターだろう。

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連載エッセイ

連載エッセイ「横須賀オンマイマインド」が200回目を迎えた。このエッセイは当初三浦半島のタウン紙である「朝日アベニュー」に連載することになり当時の同紙編集長の上平(かみひら)さんに依頼されてスタートしたものである。♦当初は1年間だけ・・・と言う事でスタートしたがいつの間にか回を重ねてきた。所が上平編集長が急逝し、同紙は休刊となってしまった。そこでそれからは自分のブログで連載を継続したのである。♦開始以来1回も欠かさず連載を続けてきた。月刊で200回と言うと年数では16年8カ月となる。連載当初はまだ心体とも溌剌としており、やる気に満ちていた。「横須賀オンマイマインド」はジャズの街横須賀を意識して執筆を開始したのである。従って話題をジャズに絞り込んで書いてきた。♦ただそれだけでは言い足りない(?)ので一般的な所感や主張はこのチャットに独立させたのである。だから私自身としてはエッセイは音楽やジャズ、それ以外の話題はチャット(文字通り“雑談と”)して棲み分けをしている積りである。♦所でこの連載をいつまで続けるか、それが問題である。こんなもん、誰のためでもなく、止めた所で誰の迷惑ともならない。だがエッセイが自分の生活の一部となっていることも事実だ。止める時にはそれなりの覚悟が必要だろう。

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読書好き

 私は読書が大好きだ。月に2,3回近所の図書館に通う。そして時にはブックオフでどっさり買ってくる。新刊書は余り興味がない。経済的な問題もあるがそれよりも新刊で読みたい書籍が余りないのだ。こういう客は出版社からすると決して上客とは言えないだろう。読む本も乱読、ノンポリで決して人様に自慢できるものではない。がしかしこの歳になったら自由に好きな本を読めば良いのだと割り切っている。特に好きなのはエッセイである。男性エッセイストでは阿刀田高、山口瞳、外山滋比古、藤原雅彦、渡辺淳一など割合“学者系”のエッセイが面白い。彼らは皆一家言を持っておりエッセイには経験と深い洞察力に基づく人生への指針が含まれていて感動を受けることが少なくない。また女性の好きなエッセイストは内館牧子、阿川佐和子、柴門ふみ、室井滋、酒井順子、群ようこなどなどである。彼女らは男性エッセイストと異なり日常のちょっとした出来事を細かい視点で捉えて軽妙に文章を紡いでいる。よくもそんなにネタがあるなと感心するがやはり彼女らは女性特有の“ネタに対する嗅覚”が本能的に優れているのだろう。酒井順子に代表されるようにどこにでもいるOLの視点が実に面白い。これからも文字を読める限り私の読書癖は続くだろう。

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貴乃花問題について考える

貴乃花が記者会見で突然辞任を発表した。相撲協会とは事実認定の争いが既に始まっている。両者の意見の正否はさておいて、今回の貴乃花のやり方は公平に観て社会常識に反しているのではないだろうか。相撲協会の年寄りと言うのは会社で言えば役員である。そこで辞任と言う個人的問題が上司や会社に何の相談もなく、いきなり記者会見と言うのは常識を逸脱している。会社であれば退職願を申請し、受理されたら黙って去れば良いのだ。これまでの人気と実績を楯にマスコミを煽っているような気がしてならない。更に弟子のことを配慮して・・・と述べていたが全くそれとは逆のような気がする。弟子を他の部屋に勝手に移籍させておいてこれからも指導・・・とは言語道断である。第1、止めた人間が外部からアドバイスや指導などされたら部屋サイドは迷惑この上ない。会社を辞めた役員が元の会社に来て昔の部下にあれこれ指示したらどうなるか。新弟子勧誘だって部屋の親方という肩書がなければいくらかつての英雄とは言え実質的には無理である。どうしてこうした稚拙な判断となったか?彼はこれまで実家同様の部屋で育てられ、20歳過ぎには角界の頂点に立ち、その後も周囲の人気を独占してきただけに社会のルールを理解しろと言っても無理かもしれない。心情的には日本国民は皆彼の味方だろう。それだけに今回の引き際には失望した。

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夏休み宿題奮戦記

 昔から夏休みの宿題には苦労した方であった。計算ドリルや漢字などは休みの1週間で仕上がってしまうのだが最も苦戦したのは図工であった。どうしても上手くできないのでいつも8月末は泣きの涙であった。最近ではそうした苦労がなくなったと思ったら久しぶりに孫の宿題に付き合わされることになった。課題は習字である。元々私が書道を習っていたこともあって家族から「習字はジイジに頼みなさい」と言う事になったらしい。いつも殆ど孫の面倒を見ていない反動が来たと言える。書道と言っても大体が古典を模写するだけで独創的な書など書ける訳がないし、お手本がなけりゃあ怪しいものだ。課題は「一生懸命」という4文字である。この字は「一生」が6画に対し、「懸命」は合計29画となっている。縦に条幅のように書くには良いが4文字を半紙に書くとエラくバランスが悪い。右側が「一生」で軽い割には左側の「懸命」がずっしりと重い。そんな事を孫に言い訳しても始まらないのでお手本を書くには書いた。まあしかしはっきり言って人様に見せられるような書ではない。出来栄えは別として一応孫への義理が果たせた・・・と言う事で茶を濁した。ああくたびれた!

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新刊「絵筆のバトン」を読んで

 絵筆のバトン」は最近新刊として刊行された私の実姉笠木和子の半生記である。神奈川新聞に掲載された書評から一部内容を抜粋してみる。「追浜地主の娘として何不自由なく育ち、画家と結婚。間もなく夫と死別し、3人の子供を育てながら横須賀にかさぎ画廊を開いた笠木和子の半生をつづったノンフィクション。(中略)自らのバトンを次世代に手渡す日はまだ。そのエネルギッシュな生き方に驚かされる。」画廊経営の傍ら全世界に散らばった義父笠木次郎吉の絵に巡り合うことをライフワークとしている。無名の画家笠木次郎吉ではあるが彼の絵は実に魅力的である。水彩画だが油絵のような重厚感があり、昭和初期の日本の風俗を如実に表現している。この辺の事情は2回に亘って朝日新聞に連載された「幻の画家 笠木次郎吉」に詳しく書かれている。世界中から笠木次郎吉の絵を見つけ出す・・・と言えば壮大なロマンを感じるが現実的には小さな糸口から絵の在り処を辿っていくというのは気が遠くなるような難事である。幸いにも絵が見つかったとしてもそれに対面するためには膨大な費用と手間がかかる。1代や2代ではとても探し求めることは無理だろう。ちなみに冒頭の「絵筆のバトン」の表紙を飾っているのはかの笠木次郎吉の傑作「帰農」である。農作業から帰る母子のほのぼのとした光景を描いている。なお、著者は女婿の細井聖である。

Efude

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24時間テレビの愚

 Nテレビの看板番組に「24時間テレビ」と言う番組がある。色々なバラエティをつなげて一日中帯で放送するものである。まあそれは好き好きであるからまあ良いとして。その中で毎年話題となっているのがマラソンである。タレントが長い時間ランニングを続けて最後はゴールに入る。そのマラソンが「感動の」とか「忍耐の」とか美化されて放送されるのだがあの意味が分からない。マラソンと違う点は休憩所ごとに入念なマッサージを受け、食物を取りつつ走りきる。かつてあるタレントの休憩の姿が映った。周囲のスタッフに命令し、偉そうにふるまって目をそむけたくなるような光景であった。また一度道路でこの集団(伴走車やカメラ車など)と遭遇したが前後は見物渋滞も含めて大変な混雑である。練習を重ねたランナーがしのぎを削るマラソン競技自体は大変な意義があり、完走した暁にはそれなりの感動も伴う。しかし大して鍛錬もしていないタレントがよたよたと走り切っても何の意味があるのか全く理解に苦しむ。それを司会者が「あと何キロ、頑張れ!」などと叫ぶが何の感動も起きない。大変な人員を動員し、周囲への迷惑を顧みずに行うこの種のイベントは早く中止してほしいものである。

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イニエスタの年俸

 スペインの名サッカー選手であるイニエスタが年俸33億円、3年契約で神戸のサッカーチーム“ヴィッセル神戸”への移籍が決まった。日本のサッカー界としては過去最高の高値である。楽天のオーナー三木谷氏が得意げに彼を紹介し、早くも集客に役立てていた。プレー面だけでなく、宣伝効果も高いのだろう。それはさておき、こういう話を聴くといつも感ずるのだが日本の金満家は何故もっとメセナ(企業による文化芸術活動への支援)に投資しないのか?と言う素朴な疑問である。欧米では若手音楽家はこれらの支援によって育てられていると言っても過言ではない。日本ではそんな話は滅多に聴いたことはない。三木谷氏にしろソフトバンクの孫氏にしろ、マスコミの話題になるプロスポーツには惜しみなく金を使うが文化芸術には無関心である。所で昨年東京でオーストラリア人の篤志家がトラッド業界に数千万円の寄付をしていただいた。この基金を基に今年から毎年若手のジャズミュージシャンのニューオリンズ派遣がスタートした。こうした小さな活動がミュージシャンを育てるのだ。額にすればイニエスタ選手に払う金の100分の1にも満たない額でこうした活動ができるのだ。決して貧しいとは言えない日本人のメセナへの無関心さが世界から日本人がバカにされる一因となっているのではないだろうか。

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浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

 この句は播磨の俳人滝瓢水の詠んだ句である。兵庫県加古川市の海鮮問屋を継いで財を成したが大変な粋人で店を没落させた。やや変わり者の俳人である。彼の句に“浜までは・・・”と言う表題の名句がある。この句はどうせ海に入れば濡れてしまうのだがそれまでは雨にぬれないよう蓑を着る身だしなみの美しさを詠んだのであろう。
 しかし実はもっと深い意味があったのだ。この句のできた経緯はこうだ。瓢水の高名を聴いた禅僧が訪ねてきたが風邪気味で薬を買いに行って留守であった。そこで禅僧は“瓢水を見損なったな、未だに風邪一つで健康に未練があるなんて・・・”と立ち去ったという。そこで彼は禅僧に対し標題の句を送ったのである。僧は己の浅はかさを反省し、瓢水に詫びたそうである。この句の浜は死を意味する。
 つまり人間は得てして“どうせ死ぬのだから”と言ってたしなみを忘れ、努力を怠る。”どうなっても良い”ではいけないのだ。しっかりした生き方をする者は最後まで最善の努力をする必要がある・・・と言いたかったのである。
 この事は現代の我々の意識にも相通ずる点である。もう私の歳になると“浜”まではそう遠くない。足元に海が迫っているかもしれない。しかしそれまでは瓢水を見習い、精一杯見苦しくない生き方をしたいものである。

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